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未来の古典

 「未来の古典」。もしも、この作品であなたが目指したものは何ですか?と訊かれたら、こう答えたい。一年以上にもわたる『Nostalgia, Amnesia』の制作過程で何度も頭によぎった言葉だ。正確には、未来の古典とはどんなものだろうか?という問いが、この作品の背景にはある。例えば制作上の迷いが生じた時にはいつもこの問いに立ち返ったし、この言葉を追いかけるようにして制作を進めていった。もちろん、それが達成できたかどうかは僕には判断できないし、少なく見積もっても二十二世紀に生きる人々にしか分からないだろう。ただ、そうした時間的なパースペクティブを意識しながら制作に臨んでいたことはここに記しておきたい。

 二〇一六年から二〇一八年までのパリでの研修中、ルーヴル美術館とオルセー美術館に何度も通いながら、作品のヒントを探していた日々を思い出す。美術作家としては自慢できないけれど、西洋美術史にはこれまで疎く、長いあいだ興味を抱けなかった。言い訳すると、自分にとってのとっかかりが無かったのだ。ただ、ある時から美術館に架けられている古典絵画を、先人たちが生きてきた時代を映したドキュメンタリーとして捉えると、途端に全てが興味深く、生き生きしたものに見えはじめた。羽の生えた天使や、頭上に輪っかが浮かぶキリストが描かれた絵画でさえ、そうした超現実的な表象にリアリティを感じていた時代の反映である。観光客がシャッターを切らない無名の絵でさえも、自分にとっては全てが考察に値(あたい)する絵となった。美術作品に具わるものは一つだけではないが、少なくとも言語感覚では感じ取ることのできない歴史認識の緒(いとぐち)を私たちに与えてくれることは特筆すべきことだろう。Artとは「現在」を次の世代に遺すことのできる貴い技術なのだ。パリでのこうした鑑賞体験によって芽生えた古典へのまなざしは、この時代に作品をつくることに対する自分の意識を柔らかく変えてくれた。

 数ある古典の中でも、とりわけ惹きつけられたのは十九世紀の動物画と農民画だった。牧歌的ともいえるその風景の一体何に自分は惹かれたのだろうか。そこには現前するであろう社会の欠損が、予兆的に描かれているように感じる。人と動物の関係、そして生業の拠り所が、時代の変化によって衰退、あるいは終焉を迎えようとしていることを、まるで芸術家が予見していたかのような気がするのは、僕がその絵にとっての未来の人間だからだろうか。あるいは根っからの悲観主義者(ペシミスト)だからなのか。

 自分にとって、未来の古典とは予兆的であると言える。そこでは必然的に失われつつあるものが対象になってくる。その対象に、躊躇することなく愛や憧れを注ぐことのできる芸術家でいたい。フランス滞在中に出会ったある羊毛のセーターをきっかけにして始まった作品制作は、羊にまつわる事象を主題にしたことで、まさしくそんな対象を次々に手繰り寄せてくれたのだった。

​​『残照ノオト』(発行:千葉県立美術館、2019年)より

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